今回は、
2011年7月3日(日)ラジオ版 学問ノススメ
広瀬和生(落語愛好家・音楽誌「BURRN!」編集長) さんの
回を起こしたいと思います。
落語愛好家である広瀬さんが、自身の著書
『落語評論はなぜ役に立たないのか』に関して語られています。
音声はこちらから
蒲田健(以下、蒲田)
落語愛好家で音楽誌「BURRN!」編集長の広瀬和生さんです。
よろしくおねがいします。
早速お伺いしていきたいんですが、
さきほどもご紹介しましたが、広瀬さんは光文社新書から
『落語評論はなぜ役に立たないのか』を御出版されました。
タイトル通り、落語評論はなぜ役に立たないのか?と
広瀬さんのお考えが展開されると共に「落語とは何なのか?」
さらに、「今見るべき落語」などなどについて書かれてるんですけど、
まずはタイトルからお伺いしていきたいんですが、
落語評論は何故役に立たないのか?
ハードな感じ出来ましたねぇ、また!
広瀬和生(以下、広瀬)
そうやって聞くと、なんかかなり挑発的っていうか・・。
元々、なぜその言葉が出てきたかっていうと、
2004,05年くらいに・・。
もともと2001年に志ん朝師匠が亡くなって、
2002年に小さん師匠が亡くなって、
そういう昭和の名人の最後の生き残りみたいな方が
相次いで亡くなったときに、
「これで落語の火は消えたか・・。」みたいな話があって、
逆にその時点で「落語というものがあったんだ」っていうのが
なんとなく再発見されつつあったんですね。
蒲田
そういったビッグネームが亡くなったことによって、
「あったのね!」と。
広瀬
それは、そういう現象っていうのは往々にしてあって、
音楽でも「解散する」って言うと、
「まだやってたんだ!」みたいな(笑)
それとちょっと似てて。
それでその時期から、春風亭小朝さんなんかが
「落語界はこれじゃいけないんだ!」っていう話を、
その少し前から本を出されていて、
改革しようみたいな話があったのが、2005年に
「林家こぶ平を正蔵にするんだ!」と宣言したんですよね。
それに向けて着々と準備をしている動きがあって
それが「6人の会」というのを結成して
立川志の輔さんや笑福亭鶴瓶さんとかをメンバーにした会。
それは大きなイベントなんか、「大銀座落語祭」とかやったりとかして
一般に落語をもっと知ってもらおうという動きを
色々と始めたというのがあったのと。
それから、高田文夫さんですね。
高田文夫さんは元々、落語を熱烈な応援団長であって、
それまでもずっと落語を応援するため、
色んな事を企画されてたんですけども。
その仕掛けの一つが身を結んだのが
「タイガー&ドラゴン」というドラマで、
あれは、宮藤官九郎さんに高田文夫さんがいろいろと
「なんか出来ないの?」みたいなことを
言ってたのが、あういう形で実を結んだという。
その辺が2005年にあって、
「落語ブーム」と言う言葉が出てきたわけなんですね。
で、実際にブームだったら、テレビで落語がどんどんオンエアされて、
落語がどんなものかは普通にわかるはず。
でも、「落語ブーム」っていう割には、ブームじゃなくて、
むしろそれは「落語がまだあったのだ」
あるいは「落語ってものがあるんだ」っていう再発見
蒲田
それが2005年くらいの
「落語ブーム」っていうところの本質だったと。
広瀬
で、そういうのがあったことによって何が起こったか?っていうと
新しいファンが落語の世界に大勢入ってきたわけですね。
それは、新しいファンっていうのはどういう人たちかっていうと、
中には昔、落語聞いてて最近聞いてなかったから
久し振りに聞いてみるかな?っていう人もいましたけれど、
大半は30代の女性とかね、
端的に言うとよく演劇なんかを観に行ったりする
エンターテイメントっていうものにとても積極的に向かっていく人たち。
そういう新しいファン層っていうのが開拓される土壌っていうのは
すでに90年代からあったわけですけれども。
それは、例えば立川志の輔さんとかがどんどん
独自の「志の輔らくご」という手法で落語ファン以外のところを掘り起こして、
「落語ってこんな面白いんだ!」っていうファン層を掘り起こしていた。
そういう動きがあったのが大々的になってきたっていうのが2005年くらいにあって、
今まで落語を生で聞いたことがない人たちが
「生で聞いてみよう」っていう気になったんですね。
で、その時に何があったかっていうと、
出版ブームのようなものがあったんですよ。
落語の特集をする雑誌、落語の「ガイド本」的なもの、
まぁ似非ガイド本(笑)そういうものがいろいろ出てて。
(みんなって僕が言うのは、おかしいかもしれませんけども)
多くの声が僕に届いていたのはですね、
「なんで役に立つガイドがないのか!」ということだったんですよ。
蒲田
それは2005年ぐらいのブームの時に、
雨後の筍のように出ていたものの
ほとんどは役に立たないタイプのものだったと?
広瀬
例えば、BON JOVIが好きになって、
モトリークルーが好きになって
「あと、何があるんだろう?」って思ったときに、
じゃあ、ちょっと「BURRN!」でも見て研究してみようか!とか。
あるいは、名盤○○選とかあったりとか、
なんとなくガイド的なものってあるじゃないですか?
そういうのがあるのが普通なんですよね。
でも、その当時の落語のガイドというのは、
「落語の歴史」から入るんですよね。典型的なものでいうとね。
「落語とは江戸時代の・・。」みたいな(笑)
そんなことはね、どうでもいいんですよ!はっきり言って!
ヘビーメタルを知りたい時に
「ブルースというのはアメリカの・・。」(笑)
デルタ・ブルースがあって、シカゴ・ブルースがあって、
いつになったらビートルズが来るんだ!って(笑)
蒲田
もうBON JOVIいつまでも聞けない!!みたいな(笑)
広瀬
もう、全然聞けなくなっちゃうんですよね。
今だったらさらに大変ですよ。
いつになったらメタリカまで来るんだ!(笑)
さらにその先もあるだろう・・。とか。
っていうのが落語のガイド的なものはですね。
江戸の歴史から入って、落語という芸能の歴史から入って、
江戸の風俗の話になって、今度は何にするかな?と思うと、
有名な古典落語のあらすじみたいなもの。
蒲田
たしかに、そういったものはよく目にしましたね。
広瀬
で、あとは寄せの行き方なんですよね。
「東京には4軒落語やる寄席があって・・。」みたいな。
そんなことはね、インターネットで調べればすぐわかることなんですよ!!
そういうものを、求めてないわけなんですよ!!
だって、映画が見たい人に対して
「映画館はどこにある」っていうのを教えてくれても・・。
それくらいチケット自分で買えるよ!!っていう話じゃないですか!!
それよりも、どの映画を見ればいいかでしょ?
演劇を好きになろうと思って、1人好きな俳優が出てきて、
どうやって何をみればいいのかな?とか他に何があるのかな?
って思ったときに、
「シアターコクーンっていうところがあります」とか
「ACTシアターというのがあります。」
「明治座というのもありますよ」ということを
聞いても何の役にも立たないじゃないですか。
でも落語のガイドってそうだったんですよ。
「で、東京には4軒寄席があります。
そこへ行けばいろんな人が出てきますから、
必ずその中から好みの落語家が見つかるでしょう」と
そんないいかげんな話ってないでしょう!!
蒲田
たしかに、そういう論法は非常によく目にしてましたね。
でも、それは結構普通かな?って感じはしてたけど・・。
広瀬
それは、落語が普通じゃないと思われてるから
そう思われるんでね。
「いやー、俺今度ヘビーメタルって聞いてみようと思うんだ。
どうすればいいの?」
「うん、じゃあ目黒に鹿鳴館っていうところがあるから、
ライブいろいろやってるから見てみれば?」って(笑)
「好きなバンドが必ずいるよ!!」→いないって!!いるわけがない!!
メタリカ好きになったからって、
目黒の鹿鳴館に行ってもですね、それはないんですよね。
寄席には、立川談志は出てないんです。立川志の輔も出てないんです。
立川志らくも立川談春も出てないわけですよ。
立川流以外で言っても、春風亭昇太が面白そうだな?って思っても
寄席に行っても出てないんですよ、たいがいの場合。
春風亭小朝も出てないですね。多くの場合。
寄席に行って出てるのは、たいがい10分(長くて15分)くらいの話を
入れ替わり立ち替りする、あんまり面白くない人たちなんですよ。
それが現実だということを、本の中でも引用したんですけども、
「あらゆるジャンルで9割がカスだ」といったSF作家がいるわけですけれども。
それは本当に9割かどうかはさておき、だからガイドが必要なわけですよね!!
レビューとか書評とかもそうですけど、演劇ガイド、批評、CDレビュー。
そういうものが何のためにあるのか?というと、
それが全てではないですけど、目安としてね。これだけのものが出ていて、
「これはこんな感じ」っていうことを教えてくれるものですよね。
落語というものがそもそもどういうものかっていうことに
『落語評論はなぜ役に立たないのか』っていう本が
前半が落語論であり、後半が落語評論のことについて
語ってるわけですけど落語って芸能の本質が誤解されていて、
その誤解を歴史的に助長していたのが、
いわゆる「落語評論家」という人たちだったという
1990年代から21世紀初頭にかける動きが
あったという事実に突き当たるんですね。
落語は演者を楽しむ芸能である、演者の個性を楽しむ。
「文七元結」とか「芝浜」とか、
いわゆる名作と言われる落語ってありますけど、
下手な奴がやったら、ちっとも面白く無いんですよ。
面白い人がやるから、落語は面白い。
で、落語にテキストというものはないんですよね。
古典落語というから、古典かと誤解をしますけれども、
それは一種のアジテーションであって、
戦後日本人の文化が非常に変わってきて
着物は着なくなったし、吉原はなくなったし、
扇子なんか使ってあんまあおがないし。
手ぬぐいなんか持ってない人たちが生活する中で、
戦前までのいわゆる伝統的な落語は、
生活に合わなくなってきたことで
あと、戦後日本人はどうしても明るい笑いを求めたということで、
新作落語のブームがあって、
それに対する古い落語を愛する人達が、
「こんなの落語じゃない!!
本当の落語はこんなんじゃないんだ!」
本当の落語っというのは何かっていうときに、
「古典落語」ていう言葉を引っ張り出したんです。
これは、ヘビーメタルっていう言葉を
ハードロックに変わって持ちだしたのと似てるんです。ある意味ね。
パンクが出てきたときに「ハードロックは死んだ」と言われて、
「ハードロック」って言っただけで「えっ!」って。
だからそうじゃなくて「俺たちはヘビーメタルなんだ!」と
80年くらいにイギリスで言い始めた。
名前を変えることによって、見方も変わる。
「古典落語」の場合は、ちょっと状況は違いますけどね。
「古典落語」というのを掲げることによって、
「あ、古典なんだ!」と。お笑いじゃないんだ!
高尚なものなんだ!えっ!文学的なものなのかも?
歌舞伎みたいなものなのかも?とかね。全部誤解なんですけど。
要するに、落語というのはネタは共有するから、そういう意味では古典です。
スタンダードがあるように、みんなが歌っても良い曲と同じで、
みんながやってもいいネタとして共有されているから、
確かに古典を伝承しているとは言えます。
それから、古典という意味には、
日本人は今こんな暮らしをしていないにもかかわらず、
そこにあたかも吉原があるような、
あたかもみんなが着物着てキセルでタバコを吸うような事を
やってるっていうのは、それは今の事じゃないから
時代劇みたいな言い方で「古典」っていうような
こともあるんじゃないかと思うんですが、
それは別に大したことじゃないわけですよね。
生活と舞台が乖離するって事は、
僕たちは普通に大河ドラマとか見てますけど、
「今さら信長じゃねぇだろ!」なんてことは言わないと思うんですよ。
それは昔の話だって知ってるってわけですから、
「吉原なんて今ねぇぞ!」なんて
「家康なんてもう生きてないぞ!」っていうのと同じで意味ないんですよ。
でも、「古典落語」という言葉を普及させることによって落語の、
自分たちの美学というものを落語は本来こういうものなんだ!っていうことを
訴えたかった評論家たちが昭和30年代にいたんですね。
それは、別に決して悪いことではなかったと思います。
僕はそれは正しいと思うんですよ。その態度は。
じゃあ「どれが本当の落語なの?」と言われた時に、
この人たちだよ!って評論家たちが示してくれたのが、
桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生、もっというと桂三木助であったり、
柳家小さんであったり、もっと年代が下がると、
古今亭志ん朝もそこに入れようか?みたいな。
それ自体は、落語という文化を守るためには、重要なことだと思うんですが。
彼らがそれをやったその当時の評論家っていうのは
色々評価あると思いますけど、
僕は個人的には素晴らしい人たちだったと思います。
ただ昭和30年代がたまたま
桂文楽・古今亭志ん生・三遊亭圓生だったのは、
たまたまであって、それはもっと前には
もっとすごい名人がいたわけですよ。
落語は「古典落語」って言った時に、
「古典落語」という言葉を流行らせた人たちは「落語通」だから、
本当のことを知ってたから敢えて言わなかったのかもしれないですけど、
落語ってやる人によってぜんぜん変わるんですようね。内容もね。
言葉遣いも変わるし、セリフも演出もサゲ(オチ)だって変えていい。
落語界のルールとして、〇〇から習ったという
筋を通すというのが慣習としてありますけども、
(習ったものを変えるのを好まないタイプの
流派があったりするのも事実ですけど・・。)
でも基本的には自分で勝手にやる。あるいは話を作っちゃう。
「作っちゃう」というのは「新作落語」というよりも、
たとえば講談から持ってくる浪曲から持ってくる、
っていうよなね。昭和の名人たちはみんなそういうことをしました。
今ある滑稽噺のほとんどは、
古今亭志ん生か柳家小さんが作ったものといって、
ほぼ間違いないくらいの。もちろん噺ととして、
ネタはもちろんあったとしても。
「時そば」っていう噺は、柳家小さんが作った噺に近いものがあります。
今やってるものがね。
「粗忽長屋」とかね。そういうものもそうなんですよね。
いろんな話があの時代は「明烏」は桂文楽がこさえた話みたいな、
「火焔太鼓」は古今亭志ん生が作った話なんですよ。
それは、あの人たちはそういう才能があって、
亡くなった人間国宝の5代目・柳家小さん、
その師匠にあたる4代目・柳家小さんという
方がこの人戦前の名人なんですけども。
「創作力のない者は噺家ではない」という言葉を残してるんですね。
創作力、クリエイティブじゃないといけない。
それは、なにも新作落語を作れって言ってるわけじゃなくて、
噺の骨格は骨格として学んだらあとは応用だと。
応用力がなきゃ!というものである。
それは、昭和の名人達が出てきた時には、
新しい落語だったんですよ。
文楽の落語って新しいね!って。
その次の時代にいくと、立川談志や古今亭志ん朝が新しかった。
三遊亭円楽も新しかったようにですね、
その時代その時代に新しいものがあって、
昭和30年代の観客は志ん生に爆笑し、
圓生に聞き惚れということだったわけなんですけれども、
そこを曖昧にされてしまったが故に、
演者も落語ファンも昭和30年代のいわゆる「昭和の名人たち」というのが
本当の落語だ!と思い込んでしまったというのがありますね。
蒲田
そこは絶対不動の最高峰になっちゃったと。
広瀬
そのことに関しては当時の昭和30年代から立川談志という演者、
それから評論家でいうと矢野誠一さんなんかは、警鐘を鳴らしていたというか、
「最近、落語どれ聞いても同じでつまらない」って言ってるわけですよ。
それは、落語家自身が怠慢であるいは才能が無くて、
才能が無いにも関わらず、
演芸ブームがあって落語家になれば
テレビに出れるのかもしれないぐらいの勢いで入って来た人たちっていうのが
才能が無いから、応用力もない話術もない人たちが、
でも教科書通りにやれば褒めてもらえるということで、
ただコピーをして、「古典落語なんだから!」「伝統芸なんだから!」
「師匠がやったのそのままやって何が悪い!」と。
それは、単なる開き直りなんですけれども、それが正しい態度であると
いつしかなってきた。それが、1990年代の話だったんですね。
昭和30年代から、40年代、50年代くらいになってくると、
もう大体それまで落語をよく聞いていた人、
落語通の人たちもかなりお年になってきたり、
いなくなったりするわけですよ。
新しい世代っていうのは、
自分が知っているものがどういうものか?ということを
分析しようとした時に、「これは圓生に似てるからアリ」
「圓生と違うものをやったら、それは駄目なんじゃないか?」
というような価値観にどうしても
毒されていってしまった傾向があったんです。
蒲田
まぁそれが、絶対不動のものになっちゃってますもんね。
広瀬
そうすると、それは面白くないんですよ。はっきりいって。
それは、同じ曲をやっても、
プレーヤーが違えば、やり方が違うから全然面白いものが
出来たり、素晴らしいものになったりするってことはありますけれども、
ただコピーするしてるだけのバンドを見てるだけでも
ずーっと見てても面白くないはずなんですね。
時代が変われば観客も変わるから。
今の音楽ファンは、
ものすごい早弾きをするギタリストをいっぱい知ってるから、
別にジェフ・ベックが「スキャッターブレイン」やったくらいでは
びっくりしないんですけど、
イングヴェイ・マルムスティーンとか
スティーヴ・ヴァイとか出てきてるから。
エディ・ヴァン・ヘイレンの
「ライトハンド奏法」なんてのも当たり前になってるから。
でも、そういう現代において、
「いや、昔のままやるのがいいんだ」っていう価値観を
持ち出されて、本当に昔のままやられたら、どうなのか?
ってことなんですよね。
まんまやられたら、
それはそれで一つのノスタルジーとしては良いかもしれないけれど、
そのジャンルっていうのは、絶対終わっちゃいますよね。
終わっちゃっても良いんだったら、たとえばヘビーメタルであっても、
「最近出てきたものはみんなダメだと!」決めつけるとね。
「やっぱり、リッチー・ブラックモアすごかったからさぁ・・」と。
そりゃ、リッチー・ブラックモアは良かったんですよ!
それ以上のギタリストはいないかもしれない、たしかに。
だけど、今あるヤツは聞かないで、「レインボー」だけ聞いてろ!と。
CD買うのは、「レインボー」と「ディープ・パープル」だけで良いんだ!
っていったら、そのジャンルは衰退しますよね。
蒲田
そうですね。それで終わりですね、決まってますもんね。
広瀬
そして、「レインボー・ライジング」という名盤とされているアルバムがあって
僕なんかは「史上最高の名盤」だと思ってるんですけども。
若い人に聞かせて場合、
「えっ!どこがいいの?」って言われることは結構多いんですよ。
娘に聞かせても、そうでしたから(笑)
声がうるさい!とかね。
ドラムがドコドコいっててワケわかんない!とか(笑)
それは、世代が違えば当然あるわけですよ。
世代が違う人が,今あるものを好きになって過去へさかのぼってって、
「でも、やっぱりレッド・ツェッペリンもいいねー。」とか
「ジミヘンっていいね!こうやって聞いてみると」っていうのはアリですよ。
「今何が聞きたいの?」っていう人たちに対しては
今の観客が求めるものっていうのを提示するのが、演者であり、
そして、それを後押しするのが評論家でなければいけないというのが
あるにもかかわらず、
落語の評論の世界というのは、
ある時期から内輪に向けてしかしゃべらなくなってきた。
蒲田
それは、昭和30年代くらいのときの評論を元にってことですね?
広瀬
その評論家たちが現役を去ってからですね。
僕の『落語評論はなぜ役に立たないのか』っていう本で
「具体的にどの評論家がダメなのかを書いてくれ!」という意見がですね
ネットなんかにあるんですけど、いやそれは、
「誰が良かったか」を書いてるから、わかるはずなんです、消去法で。
悪いものをわざわざあげつらって、「この人は良くない」とか・・。
まぁ演者に対しても、そうなんですね。
僕が落語に対して評論するときには、
「こいつのココはダメ!」って書くことは
意味がないと思ってるんですよ。
ものすごく巨大なエスタブリッシュメント(社会的な権威を持っている階層)
になったものに関しては、ある種の辛口批評も必要だと思います。
ただし、みんなが知らないものに対して更に「これがつまんない!」って
教えても、しょうがいないじゃないですか。もっといいものがあるのに(笑)
僕はたとえば、落語を語るにあたって、
堀井憲一郎さんなんかは、現代の落語をよく知っている。
木村万里さんは、とてもよく知っているとか、
吉川潮先生は、本当によく知ってるな。とか、
ましてや、高田文夫さんなんか何でも知っているくらいのことは
書いてるはずなんですよ。
出てこない人はどうなのか?って話だと思うんですけど(笑)
僕が昭和30年代の評論家っていうのは、
とても頼りになったって事も書いているんです。
矢野誠一さんであるとか、江國滋さんであるとか、
川戸貞吉さん、この方は評論家とは若干違うんですけど
TBSのブロデューサーなんで。
だけど、川戸さんの著作を非常に参考にして、
どの落語家が良いかすごく良く分かって、
それこそ『この落語家を聴け!』っていう感じで、
円楽はこんなに面白い、月の家圓鏡はこんなに面白くなった、
立川談志は今こういう事をやっているって言うことを
教えてくれて、「なるほど!!」と思ってそれを手にとって、
東横落語会通ったわけですけれども。
そういう人たちがあまり現役の落語家を見なくなってくるんですね。
その方達はご高齢なので、
江國滋さんなんかはお亡くなりになったし、
矢野誠一さんなんか僕の著作に関して
「面白く読ませて頂きました」みたいなことを頂いてるんですけど、
矢野さんなんか演芸全般、
歌舞伎なんかを含めたあらゆる芸能について書かれている方で、
落語が端的に言うと面白くなくなったから、
あの方(矢野さん)が言うには、
「自分よりも年下の世代の落語家に興味が持てなくなったから・・。」と
志ん生の時代を自分は愛したとはっきりとおっしゃって、
そして落語を語らなくなった。それはアリなんですよ!!
そういう方達は、それはそれでアリなんですよ。
正しい姿勢なんですね。興味がないものに対していつまでもね。
「まー、メタリカなんて一度も見たこと無いけどさ、
ツェッペリンに比べたらダメだろ」
って言われても、「見たことないくせに、何言ってんだ!」
ってなるじゃないですか!
「スリップ・ノットって聞いたこと無いけど、どうせ下手なんだろ?」
って言われても、それは困るわけですよ。「見てから言え!」と。
だから、現役を知っている人たちが語ればいい。
ところが、その傾向が出てきたのが昭和の終わり頃、
1990年代になってくる頃に、
落語評論というものが、
一般にもあまり必要とされなくなってきたんですよね。
つまり、「落語」が人気が無くなったから。
マーケットが大きければ、映画評であるとか、
書評であるとかっていうのは、
永遠にニーズがあると思うんですよ。マーケットが大きいから。
音楽もそうですね、5万人規模で集めたりする人がいるわけですから、
小さいところでやる人もいるけど、
大きいマーケットであることは変わらない。
でも「落語」って、2、300人を相手にする芸能ですから、
2、300人を相手にする寄席に客が入らなくなった。
20人しか入らなかった・・、とかいう所に、
評論はビジネスとして成立しないわけですよ。
そうすると、切磋琢磨ということが無くなるわけですよね。
ある種の同人誌みたいなことになってくるわけです。
落語に対する評論のようなものが。
そうすると、「評論家」って
言えば誰でもなれるんですよ。言っちゃえば。
それは「小説家」って、
「今、処女作執筆中」っていう人も昔いましたけど(笑)
言っちゃえばなんでもなれるんですけど。
それはでも、読み手・受け手が決めるわけですよ。
「こいつ評論家っつったって、自分の意見押しつけてるだけじゃないか!
本当はよく知らないじゃないか!」
そういうのは、受け手が決めるわけなんですけど。
受け手そのものがほとんどいなくて、
自分が落語通だと思っている人だけが、
落語の客であるところに
「自分はあなたたち落語通と同じ価値観を持ってるよ」ということを言って、
「だから、やっぱり○○の落語って言うのは、
今ちょっと若い奴にウケてるけど
あういう型は志ん生には無かったよね」とか、
「小さんはあういう風にやってなかった。
やっぱ、志ん生・小さんだよな」とか。
実際寄席のファンの中には、
よく言われる話で本当にあるんですけど、
若手の落語家が寄席で目の前でやっているにも関わらず、
イヤホンで昔の名人の
CD・テープを聴いてる人、本当にいるんですよ!
だから、それはそれで昔のものを好きなことは構わないんですよ。
僕だってしょっちゅう「レインボー」聴いてますよ。
レッド・ツェッペリン聴いた方が新しいものよりいいこともありますけど、
それまた話は別!!
評論するのは別ですよね。
自分の美学というものを、自分で語りたい人は
今で言えばブログかなんかで、
自分ひとりで書いてれば良いんです。
みんなに対して発信する評論家なんてことを語る必要はないんだけど、
名乗ってしまっていた人たちが演芸評論家・・。
その前の世代の本当の演芸評論家・落語評論家がいなくなっちゃったから、
単に新聞で落語評を書いていた人がなんか評論家のような顔をしたり、
「落語は俺も昔は、年に2・3回は聴いたなぁ」ぐらいのひとが、
「子ほめ」って面白いよね、ぐらいのことで(笑)
でも、その人が文学者だったり
大学教授だったりっていうことで、
「みんなが知らない落語を
俺はみんなより知ってるぜ!」ということで
語っちゃうような程度のものが
落語評論にいつしかなってたので、
そのレベルの低さと同時に
懐古主義というか原点が昭和30年代にある
ということを既に実体験ではなく
ブッキッシュ(机上の)な知識としてしか知らないのにもかかわらず、
「志ん生は良かった」、
あんた志ん生見たのか!っていう(笑)
「いやCDで聴いた」って。
いやCDで聴くのも良いけど・・。
今のことを知らないのに、
今のこと語っちゃいけないでしょっていうような人たちが、
落語雑誌とか落語入門とかガイドのようなもので書いているので、
今の落語家のことを書けないんですよ!!
今の落語家に誰がいるということを書こうとしても
川戸貞吉さんが円楽の変化をずっと見てきたとか、
志ん朝のここが良くないということまで
指摘できるくらいまでよく見てたりとか、
立川談志はこの時こういうマクラを語ったとか、
リアルタイムで見てきた人ゆえのそういうレポートであり
ガイドでありというものを書ける人がいなかったんですね、2005年くらいに。
「BURRN!」編集長で落語愛好家・広瀬和生が語る「落語評論はなぜ役に立たなくなったのか?」(2)に続く
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