堀井憲一郎が語る「『芝浜』から知る江戸の金銭感覚」

2012/03/27

キラ☆キラ 芝浜 堀井憲一郎 落語

今回は、小島慶子キラ☆キラ2012年1月17日(火)放送分

堀井憲一郎さんのペラ☆ペラを起こしたいと思います。

音声はこちらから



堀井
えーと、12月になると落語で良く聞く話にですね、
「芝浜」っていうのがあるんですけども。
最近はなんか異様な人気で
夫婦愛について語ってるからなのかもしれないですけれど。
よーく聞くんですね。

「芝浜」っていうのは、「芝浜の革財布」っていうやつで、
海に行って、芝の浜にいって財布を拾ってくるんですね。
その中にお金、銭が入ってるんで持って帰ってくる。


旦那は自分で調べないで奥さんに「ちょっと数えろ、お前は」って渡すんです。
で、奥さんはザラザラって出して、そこに一つ台詞があるんです。
「あんたこれ銭じゃないよ、お金だよ」って言うんですね。



この台詞があって最近ここでね、客が冗談だと思って笑う人が結構いるんですね。
「銭じゃないよ、お金だよ」、ただ言い換えてるだけだな!と思ってですね。
そこのところやっぱ、昔の金銭感覚が割と出てる感じだと思ってるんです。

江戸時代の銭と金に関するポイントで、銭っていうのは銭なんですね。
小銭の「銭」なんですね、私鋳銭が入ってたり、
びた銭が入ってたり、一文、二文とかっていうことで。


そこで入ってたのが、金・銀なんですよ。
二分銀とか一分金とかが入ってる。
金か銀かが入ってる場合はこれは「お金」なんですよね、江戸時代って。

極端に言うとそれは貴金属として通用するんですよ。
鋳つぶしても、金としても。
まぁそれは江戸時代にいろいろ幕府は、
「これ実は品質を悪くしたら儲かるんじゃないか?」って再三悪いことを考えて、
経済を混乱させますけれども。

まぁでも悪くなったといっても基本的には、金・銀がかなり含有されているので、
金・銀として通用するのが「金」。
でも本来は「銭」しか庶民っていうのは使わないものだから、
こんな大変なものが、(「お宝が・・」とも言うんですけども)入ってるんだよ!っていう意味で
叫ぶんですよね。

で、噺家は説明無しに言ってますから、
今だと会場の8割くらいの人には通じてないんですよね。
江戸時代の金銭感覚がないですから。

だから、よくその後に「1両ってどれくらいの価値なの?10両ってどれくらいの価値なの?」
って言われるけど、それははっきり言って、説明するのは無理です。

もし10両ってどれくらいの価値か?というのは、
あなたは10両を見る時の身分設定をして下さい。
江戸時代である限りは、身分をどのポジションに取るか?によって
10両の見えてくる価値が違うんで、「身分設定をして下さい」ということでしか見れない。

江戸時代の人たちも今と同じ、私たちと同じように
みんな平等に暮らしていたわけではないので、
わかりにくくなるということがありますよね?

で、すごいお金の多寡でよく出て来るのが、
「富くじ」の話があります。
一番に千両富が当たって、だいたい当たるんですよ。
「富久」とか「宿屋の富」とか「御慶」とか、みんな一番富・千両が当たっちゃうんですけど。


千両は一体いくらか?ということよりも、
一番富が千両なんですけども、札が1枚一分するんですね。
一分っていうのは、一両の4分の1です。
一両の4分の1のもので買って千両しか当たらないんです、逆に言うと。

でこれ千両を仮にですよ、仮に1億円だとすると。
今宝くじが1億円くらいだから、そうすると富くじの札1枚いくらか?っていうと
10万円です。

10万円の札で、1億円当てるっていう事だから、
これだから感じ違いますよね?宝くじ買ってるわけじゃないんですよ。
10万円使える人ですよ、簡単に。
「ちょっと2枚くれ」っていったら、20万円ですよ!
「20万円宝くじ買ってくるわ!」「あんた止めなさいよ!!」って
今でも言われそうなところがあるっていうのは・・
(音声では、富くじ1枚1両での計算になっています、一分なら2万5千円になります。)

だからつまり、世の中全体に金が全然回ってないっていうことですよ。
落語の中で時々出て来るのが昔、青砥藤綱という侍が三文の金を
川の中に落として、それを人をすごい使って探させたことがあるっていうのが、
美談として語られてるんです。
これ歌舞伎の芝居とかで流れがあるんですけども。

三文を拾うために人を雇ったら、もちろん金が要りますから
例えば「一両使ってでも、三文を拾え」っていう。
それは何故か?というと無駄遣いしてるんじゃなくて、
三文っていうのはこれは金・銀というお宝なので、
これが川の中に落ちて無くなるというのは、社会としての損失ですよ。

人を雇ったその金は、それは損失にならないですよ。
なおかつ三文を無くさないために働くということは良いことだっていうことで、
美談として語られるんですね。

その感覚が今だと、30円・・300円くらいですよ。
「100円玉3つ落としたのに、人を雇って人件費で
10万かけたらバカじゃないの?」って言われるのは、
「バカじゃないの?」って言える感覚があるかどうか?によらないと
江戸時代の感覚が分からなくなるということですよね。

「富くじ」というのは、「無尽(むじん)」の1種の変形と言われるんですけども。
「無尽」もしくは関西の中では「頼母子(たのもし)」って言われるんですけど。
同じものなんですけども、これ落語の中で時々出てきます。

「無尽は誰に落ちた?」とか「頼母子はどうなったんだ?」っていうのが出てきて、
町内のお楽しみ会みたいな要素があったみたいなんですけども。
もともと社会全体にお金が回ってないので、
誰かが突然変なことが起こったので例えば「100万円要るようになりました」って、
みんな100万円なんて持ってないから、
「じゃあみんな10万円ずつ持ってって10人集まろう!」
「5万円ずつ持って20人集まろう!」と、集まって100万用意しました。

で、1回目は一番用意が必要な人に100万円を落としてあげるわけですね。
毎月もう1回やるわけですよ、次の月も10人で100万、10回集まるんです。
10万ずつ10回出すと、100万出すんです。
で、1回だけ必ず自分に当たるんです。そうすると、100万出して100万戻ってくる。
これ利息も何もなくて、ただの人助けなんですね。
元々の基本的な形でいうと、「無尽」っていうのはそういう形の人助けをやっていた。

で、「富くじ」も同じなんですよ、本来は。
寺社仏閣の富くじなので、寺とか神社がボロボロになるんだけど、
まぁ幕府も出してくれないんですよ、ご公儀もそんな金はいちいち。
どうにかしなきゃいけない!というんでみんなから金を集めて、
みんなの金によって作るっていう事が
元々、今でもそういう寄付的にやってるのもありますけど、
その寄付ではないのでみんなで回す「無尽」っていう事でいうと。

もっと現象的な「無尽」は、
地方に行くと屋根を葺く無尽っていうのがあって、
屋根をワラで・・ほとんどワラで葺くんだと思うんですけども。
屋根葺くのってすごい大変なので、一つの家族だけでやると大変なので
20の家によって、20年に1回ずつ1軒ずつやるっていう・・


だからみんなその家の屋根のためだけど、自分の家でワラを全部用意して
そっちに行って葺き替えてあげるんですよ、その家をその年は。
翌年は違う家、20年に1回は自分ところも葺く替えられるっていう
これが「無尽」の基本的な形で、
お金の流れ方もそういうなのに近いっていうところなので、
一両がいくら・・・例えば一両が10万円くらいだっていう換算をしてもわからない。

例えば、米つきの重労働をしてて1年の賃金が
二両とか三両だった階層の人もいたわけですね。
1年間20万円しかもらえないで、ずーっとですよ。
休み1年間で5日ぐらいしかない・・5日もないかな?3日くらいしかないのに
20万円ぐらいしかもらえないっていうような事は、
これは金銭に換算して働いているわけではないんですよね、明らかに。

金に全部換算できるっていう形になったのが現代で、
それは色んな事がすごい便利なんですけども、
その感覚で江戸の昔のことを見ても分かんなくなるし。

逆に言うと、江戸の昔の金銭感覚で現代を見るとちょっと・・・
そればっかりで見るのはおかしいんじゃないか?っていう感じになってきますね。
その方が楽ではあるし、便利ではあるんですけど。

それは平等であるし平板化していくし、みんなが一人ずつ自由である事のためには
必要な事ではありますけど、貧乏な時はなかなか難しいですよね。

だから江戸の金はすぐには換算出来ないという。


(了)

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